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展勝地についてAbout TENSHOUCHI

自然と文化が融合する北上展勝地

北上市の展勝地は、東北有数の桜の名所であり、「みちのく三大桜名所」の一つとして知られています。約293ヘクタールの広大な公園内には、約1万本の桜が植えられ、特にソメイヨシノが春に美しく咲き誇ります。毎年4月には「北上展勝地さくらまつり」が開催され、観光馬車や遊覧船から桜並木を楽しむことができます。夜にはライトアップされた桜が幻想的な雰囲気を醸し出し、多くの観光客を魅了します。

また、展勝地は四季折々の楽しみ方があり、初夏のアジサイや秋の紅葉、冬の渡り鳥観察など、訪れるたびに異なる自然の美しさを体感できます。公園内には、地元の食材を使った料理が楽しめる展勝地レストハウスや、歴史を学べるみちのく民俗村もあり、家族連れや友人同士での訪問に最適です。自然と文化が融合したこの場所で、心温まるひとときをお過ごしください。

所在地 〒024-0043 岩手県北上市立花
利用時間 終日開園
面積 約293ヘクタール
桜の種類 約150種類
おすすめの
楽しみ方
春:桜の花見やさくらまつりを楽しむことができます
夏: 初夏にはアジサイが咲き誇り、涼しげな風景を楽しめます。また、バーベキューエリアもあり、家族や友人とアウトドアを楽しむことができます。
秋: 紅葉の季節には、色とりどりの葉が公園を彩り散策に最適です。
冬: 冬には渡り鳥の観察ができ、静かな自然の中でのんびりとした時間を過ごせます。

展勝地の歴史

展勝地のはじまりと桜の名所づくり

展勝地という名前は、公園内の「陣ヶ丘」からの素晴らしい眺望に由来しています。風見章氏が「展望の“展”」と「景勝地の“勝”」を組み合わせて「展勝会」と名付けたことから、この地は「展勝地」と呼ばれるようになりました。

 

もともとこの一帯は、変化に富んだ地形と自然美で、県内随一の名勝地として知られていました。しかし、大正時代には山林の乱伐が進み、景観は荒れた状態に。そこで「この地を小規模な景勝地にとどめず、国の名勝として整備したい」との想いから、桜の植樹が始まります。

 

1920年(大正9年)、当時の黒沢尻町長・沢藤幸治氏が「和賀展勝会」を発足。東京帝国大学の三好学教授と技師の井上清氏の指導のもと、「和賀展勝地計画」が立てられました。計画では、ソメイヨシノをはじめとする複数品種の桜を組み合わせ、常緑樹の赤松などと共に景観美を高める工夫が施されました。

 

1921年(大正10年)には北上川沿いにソメイヨシノの若木を植え、和賀展勝地が開園。1954年(昭和29年)の北上市制施行を機に、「北上市立公園 展勝地」として現在まで多くの方に親しまれています。

展勝地の歴史

1920年(大正9年) 後の黒沢尻町長である沢藤幸治氏が民間団体「和賀展勝会」を設立
沢藤幸治氏の親友である風見章氏(後の司法相)が事業団体の名称を命名
陣ヶ丘からの眺めが素晴らしいことから、「展望のきいた名勝・景勝の地」という意味で命名
1921年(大正10年) 桜やツツジの植樹を行い、5月21日に「和賀展勝地」として開園
1954年(昭和29年) 北上市の市制施行により「北上市立公園展勝地」と名称変更
1990年(平成2年) 日本さくらの会より「日本さくら名所100選」に認定
2021年(令和3年) 開園100周年を迎え、記念イベントを実施

開園以来、地域住民の協力のもと、桜並木は大切に守られ続けてきました3。北上川の洪水被害などにも見舞われましたが、長年にわたって地域の人々に支えられ、現在の美しい桜の名所となっています。

 

また、展勝地周辺には、みちのく民俗村(北上市立博物館)やサトウハチロー記念館など、関連する施設が整備されてきました。 これらの施設は、展勝地を訪れる観光客に対して、地域の歴史や文化についてより深く学ぶ機会を提供しています。

展勝地を作り上げた先人たち

沢藤幸治
展勝地の「育ての親」と呼ばれる中心人物。
大正9年(1920年)に和賀展勝会を結成。
後に黒沢尻町長を2期、岩手県議会議員を務めた。
展勝地の開園を実現させた。
風見章
沢藤幸治の親友で、後に司法相となった人物。
「展勝会」という名称を命名。
激動の昭和期を生きた政治家として、日中戦争から太平洋戦争、そして戦後の日本の政治に深く関わりました。その経験と見識は、日本の近現代史を理解する上で貴重な視点を提供しています。
三好學
日本の植物学の基礎を築いた重要な人物。
東京大学名誉教授で桜の権威。和賀展勝地計画を指導。
植物学の研究だけでなく、自然保護や文化財保護にも大きく貢献。 彼の研究と活動は、日本の植物学と環境保護の発展に重要な役割を果たしました。
井下清
東京市公園課長で和賀展勝地計画を考案。
日本の造園界において重要な役割を果たした人物です。
「利用者本位の公園論を提唱」「公園の経済的自立を重視」「公園の社会的価値と実用性を強調」など、単なる造園家にとどまらず、経営感覚に優れたプロデューサーとしても活躍しました。彼の思想と実践は、現代の公園や公共空間のあり方にも大きな示唆を与え続けています。
原敬
爵位を持たない初の首相として知られる、明治・大正期の日本を代表する政治家。
沢藤幸治が原敬首相に資金援助を要請した際に、原敬は計画に賛同し、多額の援助を行っています。
展勝地が開園するも、同年に東京駅で凶弾に倒れました。
1962年:原敬の功績を称え、展勝地内に句碑が建立され、周辺は「一山園」と名付けられています。

展勝地の創設は、地域の有志や専門家、政治家など、多くの人々の協力によって実現しました。

特に沢藤幸治の尽力が大きく、地域の景観を活かしつつ、理想的な桜の名所を作ることを目指しました。この取り組みは、単なる観光地の開発ではなく、地域の文化や歴史を大切にしながら、新たな価値を創造する試みだったと言えるでしょう。